<夏のサミット2010:ファイナル・サミット>の2発目!
尼崎ロマンポルノ『富獄三十六系』
2010年8月12日(金)13:00の回鑑賞
ひとつの作品としてのまとまりが見えてこなかった。
ここで言う「まとまり」ってのは、作品として整理されているかどうかってことではなくて、整理されてないならされてないなりの何かが観たかったという意味。
僕は決して、すべてがひとつの方向性に向かっている作品が観たいと思っているわけではなくて、むしろそういう作品で面白いと思えないものもたくさんあるわけで、さらに言うと、ひとつの方向性に向かいきれなかった故の綻びみたいなものが面白かったりするわけです。
だけど、今回の尼崎ロマンポルノの作品は、その部分に無頓着であるように思えてしまった。
もちろんその〈無頓着さ〉が魅力に反転することはあるけど、その〈無頓着さ〉に対する〈無頓着さ〉、あるいは〈無頓着さ〉に対する迷いみたいなものが見えた気がして、観ているこちらも迷ってしまった…。
もしその迷いが狙いだったとしても、観客に与える迷いを演出的に操作しきれていないように思えたし(ま、操作されてるって見えすぎるのも面白くないんだけど…)、何かひとつの基準の上で舞台上の様々な要素が選択されているようには思えなかった。
具体的に言うと、まず、現代の話であるってことが分からなかった。
僕は勝手に近未来か“いつでもないいつか”かと思い込んでいたら、なんだか現代の話っぽい意味合いの台詞が出てきて、どっちなんだ?という感じだった。
僕にとってそのひとつの要因は衣装で、衣装そのものは突っ込みどころ満載で盛りまくっている感じが面白くて、ファッションショーにはなっているんだけど、それが作品世界を構築・表現していたかというと…「?」がつく。
もちろん、現代の話だからリアルな現代服じゃなきゃいけないって意味ではない。
だけど、現代の話で敢えてリアルな現代服を選択しなかった場合、それに見合った演出的な仕掛けが必要だとボクは思う。
小道具にも同じようなことが言える。
「そういうの考えないで、めちゃくちゃやってまーす!」でも良い。
だけど、それならそれで必然性を持っていてほしい、舞台上で。
ポストパフォーマンストークでも話したのだけど、僕はこの大きな学芸会的ノリの芝居は嫌いじゃない。
良い意味で手作り感のあるショボさと、それと相反する世界観の大きさ。
そのアンバランスさを演出的にどう把握し劇空間を構築するのかってことがこの劇団がやりたいこと?…やるべきことなんじゃないか、と思ったりした。
これで例えば全員衣装が全身タイツで、美術がプラレールとかだったらバカバカしすぎて大笑いすると思う(笑)
ま、どうでも良いんです、そんな愚案は…。
とにかく、僕と同じ関西を拠点にするカンパニーとして、単純にもっとイキ切って欲しいって思った!
僕もがんばります!!
サミディレ・杉原邦生
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