【夏サミ2009:観劇レポ1】ザ・プレイボーイズ『ばべるの塔の僕とガイジン』
「夏のサミット2009:エネルギッシュ・サミット」のトップバッター!
ザ・プレイボーイズ『ばべるの塔の僕とガイジン』
2009年8月5日(水)15:00の回鑑賞
サミットの応募資料のビデオで観た作品は、それこそ真っ青(春)な男たちがめちゃくちゃやってるという印象だけで、それが選定の段階でも最大の魅力だったし、この勢いでアゴラで暴れ回ってくれさえしたらいい、なんて思っていたのだけど、今回の『ばべるの塔の〜』はそんな期待を裏切ってくれた。
こういう立場(ディレクションする側の立場)として裏切られたときの気持ってのは、けっこう微妙で、「あれ?思ってたのと違うんだけど…」という小さな憤りの反面、「ああ、そう裏切ってくれたんだ!」って嬉しく思ったり思わなかったり…。で、今回のザ・プレイボーイズの公演に関して言うと、その気持ってのがなんだか消化しづらくて、中途半端に裏切られた感じがした。と、帰り道で思った。
中途半端に裏切られるってのはなんでしょう?
今回、主宰の堀くんが体調不良のためポストパフォーマンストークに出演できなくなってしまったので、本人と話せなかったことが非常に残念だったのだけど、出演者とのアフタートークで聞くかぎり、今回の作品はこれまで以上に〈ドラマ(ストーリー)〉に重きを置いた作品だったよう。だから、意外にまともだった、というのが第一印象(笑)。だけど、その描かれる〈ドラマ〉ってのが中途半端だったんじゃないか。描かれている〈ドラマ〉そのものも、その〈ドラマ〉の描き方(演出として)も。だから、まず作品に於けるその〈ドラマ〉の立ち位置が危うい。つまり、ここで描かれたドラマが非常にステレオタイプなものであったということがまず一つと、そのステレオタイプなドラマに対する演出的戦略が何もなかったということだ。演劇をつくるということはおおざっぱに言うと「なに」を「どう」描くかということだし、無数の「なに」と「どう」からどれを選択していくのかということが重要なんだと思うのだけど、今回の場合、「なに」の部分に非常にステレオタイプなドラマを充てはめたあとで、「どう」の部分で何をみせていくのかということがもっともっと練られてないといけなかったんじゃないか。
アフタートークでも話したのだけれど、具体的には、例えば舞台になっているマンションの1室で登場人物たちが靴の脱ぎ履きなく行き来するということにどういった演出的戦略があったのか。もしくは、飲み物を買いに行くシーンで、明らかに短い時間で買いに行けてしまうという演出的な省略にどういった意図があったのか。もちろん、そういう細かいことは抜きにして楽しみましょうという部分が演劇の最大の魅力でもあるから、それを否定しているわけでは決してなくて、だけど、それを納得させるのが演出という作業だから、やはりその部分が圧倒的に欠けていたと思う。もしかしたら、あの具体的な舞台美術は要らなかったのかもしれないし、もし具体的な美術を設定するなら、その美術が説得力を失わない演出が施されてなければいけない。そういう部分で演出的な可能性はまだまだあった。
でも、全体を彩る“男子校的”なノリは個人的にとても好きだし、どんどん作品をつくっていってほしいと思った。
あと、アフタートークは爆笑だった(笑)
富田君のお母様、ありがとうございました。
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【稽古場レポート09/07/18】
サミディレ・杉原邦生
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